今朝のお写経は!「是故空中無色 無受想行識 (ぜこくうちゅうむしき むじゅそうぎょうしき)」つまり、全ては空=無常無我であり、外部世界と常に相互作用して影響を受け合い、やがて地球に戻る存在が身体なのだから、身体にこだわらず、超えて行きなさい、と言う事らしい。

本日のお写経は

枡野俊明 監修、岡田崇花 著の

書き込み式 ボールペン「般若心経」練習帖

の11日目。

「是故空中無色 無受想行識 (ぜこくうちゅうむしき むじゅそうぎょうしき)」

なのでした。

この11日目では、

無の定義がされていて、

無とは、「ない」ではなく、「超えて行きなさい」と言う意味

らしいです。

この定義は、とても大切で、

どんどん、この般若心経では、「無」がたくさん出てくるので、

無が書かれていたら、

あ!無=「超えて行きなさい」の意味だった

と紐付けしておくと、理解はしやすいかと思います。

んで、意味は、今朝の段階で理解している意味は、

「是湖是故空中無色 無受想行識 (ぜこくうちゅうむしき むじゅそうぎょうしき)」

つまり、

我々が暮らしている世界、宇宙は、全て空=無常無我=縁起であり、

つまり、全ては変化し、酸素がないと人間は存在できないように、

外部世界があるからこそ自分達は存在できる訳で、

結局、自分一人だけで生きていくことは不可能なわけで、

つまり、外部世界と常に相互作用し合いながら、

つまり、ご縁によって、全ての出来事は起きている訳だから、

どうしても、嫌なことが起きたり、

怒ったり、楽しんだり、喜んだり、

苦しんだり、心の状態は、瞬間瞬間で、

激しく変化していくものだから、

いちいち、その都度その都度、

心を揺らしていら、

動揺していたら、

キリがないわけで、

疲れるわけで、

苦しい訳だから、

そう言う無常の、瞬間瞬間で激しく変化する世界に存在する我々は、

外部世界の出来事に、動揺を受けるのではなく、

常に、平穏で穏やかな心の状態を維持するように、

つまり、いつまでも思い続けて、

苦しみ続けるのではなく、

苦しみを生む出来事や悔しい思いを、

ぐっと、強く握りしめて、

苦しみ続けるという、

愚かなことはせずに、

苦しみを生む考えを手放し、

前に進みなさい、

それが修行、悟りへの道ですよ、

みたいな、感じかと。

どんとはれです。