今朝のお写経は!「以無所得故」(いむしょとくこ)、つまり、もともと我々人間は地球表面に突如生まれ、何年間か生き、そして地球に戻る存在、自分の身体は自分の物と思っても、本来的に身体は地球の物であり、ある意味、 地球表面で遊ばせてもらっている存在であり、人間が恐怖という感情を楽しむ為にジェットコースターに乗っているのと同じで、 地球表面のつかの間の人生の中で、恐怖や喜びなど、 様々な感情を体験して、遊べ、だから、 苦しみを経験する事も楽しみの一部となるから、 苦しみを滅する方法を教えた釈迦の教えを手放せ?

本日の写経は

枡野俊明 監修、岡田崇花 著の

書き込み式 ボールペン「般若心経」練習帖

の18日目。

今朝は、

「以無所得故」

でした。

この本の解説は、

「全ては実体がないので、得るということ自体がないからです」

となっているので、

昨日の、

無智亦無得

つまり、苦しみを滅する方法や、この世界の仕組み、つまり、

この世界は空である、つまり、無常無我、つまり、

この世界は常に変化しうつろいゆく世界で、

人が酸素がなければ生きて行けないように、

人は、様々なもの、人との関わりの中で、

縁の、ご縁の中でしか、

存在できないのだから、

外部世界との相互作用により、

自分の思い通りにいかないのだから、

思い通りにいかない事を、苦しみ、と仏教では定義しているから、

この世界は苦しみの世界である、

だから、わざわざ、苦しみの感情を持ち続けるという愚かなことはしないで、

人からああ言われた、こう言われた、

頭にくる、という、怒りの感情を持ち続けるのではなく、

自分で怒りの感情を持つ事を、やめてしまって、

次の移りゆく世界へ、未来に向かって、前進せよ、

という、お釈迦さんの教えを、

超えて行きなさい、

お釈迦さんの教えにさえも、こだわらず、執着せず、

それを超えて、前に進め、

と言っていて、

その理由として、

本日の

「以無所得故」

つまり、

お釈迦さんの教えさえも、こだわらず、執着せずに行きなさいと

いう理由として、

「全ては実体がないので、得るということ自体がないからです」

と、言っている。

つまり、おそらく、

もともと我々人間は地球表面に突如生まれ、何年間か生き、

そして地球に戻る存在、つまり、未来永劫、変わらない、つまり、

実体があるものではないので、自分の身体は自分の物と思っても、

それはつかの間の物であり、本来的に我々の身体は地球の物であり、

自分の体は自分の物と思っていても、地球の物であり、ある意味、

地球表面で遊ばせてもらっている存在であり、ある意味、

人間がジェットコースターに乗って、恐怖という感情を楽しむ為に、

ジェットコースターに乗っているのと同じで、

地球表面のつかの間の人生の中で、恐怖や喜びなど、

様々な感情を体験して、遊べ、そして、学べ、だから、

苦しみを経験する事も、楽しみの一部となるから、

苦しみを滅する方法を教えた釈迦の教えも超えないさい

という意味にも、取れるかもしれないと思った次第なのであります。

どんとはれ。

今朝のお写経は!「無苦集滅道 無智亦無得」つまり、もともと般若心経は、人々の迷いや怒ることによる苦しみや、思い通りにならなくて苦しんだりするけど、この人々の苦しみは、どこから来て、そこから抜け出すには、どのように世界を認識して、物事を捉え、考え、生きていけば、迷いや苦しみのない彼岸の世界として、この世界にとどまりながらも、穏やかに生きて行けるか、その方法を教えているのが、般若心経であり仏教である、と言うことらしいですが、その方法の一つが、この部分らしい。

本日の写経は

今朝の般若心経の写経は 枡野俊明 監修、岡田崇花 著の

書き込み式 ボールペン「般若心経」練習帖

の17日目。

今朝は、

「無苦集滅道 無智亦無得」

でした。

今朝、この本の解説を読みながら、

考えていたんだけど、

もともと、今、何をしているんだっけ?

この部分は、なんのために、書かれているんだっけ?

と、意味が、意義がなんか、分からなくなってしまったので、

もともと、般若心経って、なんだっけ?

なんのためのお経だっけ?

などと、思ってしまい、

振り返って、見てみたら、

表題の様に、

「もともと般若心経は、人々の迷いや怒ることによる苦しみや、思い通りにならなくて苦しんだりするけど、この人々の苦しみは、どこから来て、そこから抜け出すには、どのように世界を認識して、物事を捉え、考え、生きていけば、迷いや苦しみのない彼岸の世界として、この世界にとどまりながらも、穏やかに生きて行けるか、その方法を教えているのが、般若心経であり仏教である、と言うことらしいですが、その方法の一つが、この部分らしい。」

と言うことを再認して、本日の、

「無苦集滅道 無智亦無得」

を、みてみると、

お釈迦さんが、教える、この世界の真実、つまり、苦しみの原因や苦しみから

抜け出す方法が、

苦集滅道

の部分で、これを四諦(したい)と定義したらしい。

つまり、

苦:思い通りにならない事を「苦である」と定義しているので、

人生は苦である。これを意味しているのが「苦」

集:この世界は空=無常無我であると言う真実を知らなかったり、

思い通りにならなくて怒り苦しむ、と言う思いに、頭にくる、

と思い続ける、つまり、執着する、とらわれる、その思いを手放さないで、

がっしりと、握りしめて離さない、つまり、これを「欲」とか「煩悩」

と言うけど、この、怒る気持ちを握りしめて離さない事が、

苦しみの原因ですよ、と言っているのが、「集」の意味らしい。

滅:このがっしりと怒りを握りしめて、離さないと言う、欲、煩悩、執着、

とらわれ、をやめなさい、さっさと手放しなさい、煩悩を手放しなさい、

そうすれば、苦しみから解放されますよ、平穏な気持ちで日々を

暮らせますよ、

その様な世界観が悟りの境地ですよ、と言っているらしい。

さらに、この世界は空=無常無我である事を、よく理解しなさい、

よく考えなさい、そうすれば、皆さんの苦しみは無くなり、

苦しみを滅する事が出来ますよ、と言うのが、お釈迦さんの教える、

この世の真理の一つらしい。

道:お釈迦さんの教える八つの正しい道、生き方(八正道)で

暮らしていけば、苦しみは滅して、心穏やかな悟りの境地に達し、

この苦しみの世界の中にいながらも、穏やかに生きて行けますよ、

と言うのが、「道」、らしい。

以上の苦集滅道、つまり、四諦と言う真理を話しておきながら!!

苦集滅道の前に「無」と書いて、つまり、

無苦集滅道

と、書いて、

さらに、しかしながら、この教え自体にもとらわれず、

執着しないで、さらにこの教えを、真理を超えて、

その先に前進しなさい、成長しなさい、

と言っている模様。

おいおい、マジですか?

と思うのだけど、

お釈迦さんの教える四諦と言う真理も、

良いのか悪いのか分からないから、

さらに、考えて、前に進め、

と言うことか?

お釈迦さんの更にその先へ、進め、

と言っている模様。

とは言っても、お釈迦さんは全て承知の上で、

世界を理解しながらも、お釈迦様のみている世界に、

更に、近づけるために、言っているような気もするな〜〜。

まあ、いいや。

んで、更に、なんと!!

無智亦無得

つまり、

無智:この世界は空=無常無我の世界である、縁起の世界、縁によって

物事は起きる、生じる、と言うお釈迦さんの理解した、示した、

空の考え方(智)それ自体も、更に、人々よ、超えて、

その先に向かって、前進せよ、

と言っているらしい。おいおい、マジですか!!と言う感じですが、

はたまた、更に、

無得:空、縁起である事を理解し、苦しみのない平和な心が得られるという、

ご利益、ありがたい、平穏という心が得られるというご利益、さえも、

超えて、つまり、平安が得られなくても、それにこだわらず、

執着せずに、前進せよ、超えて進め、

と、言っているらしい。

まあ、確かに、必ず平穏な心で居られない場合もあるから、

まあ、それが現実だから、平和な気持ちを得られなくても、

そのご利益を得られなくても、よしとしなさい、

執着しなさんな、

と、言っているらしい。

つまり、なんと!!

「今まで学んだ、この世界、森羅万象は空=無常無我であるという現実、

真理、智慧さえも、超えなさい、更新して行きなさい。

そして、平穏が得られるというご利益がなくても、

ご利益を得ようと、平穏な心を得たいという思いも、投げ出して、

とにかく、前に進め、前進せよ」

と、言っているらしい。

おいおい、マジですか、せっかく、この苦の世界で生きていくための

お釈迦様の教えを理解して、

やっと、平和な気持ちで、生きられるなと、

喜んでいたら、

いやいや、そうじゃないですよ、まだまだ、勉強が足りませんよ、

このお釈迦さんの教えを、さらに、各自、一人一人、超えて、

成長せよ!!

と、言っちゃうんだから、え〜〜〜〜!!

と、思っちゃった訳であります。

が、まあ、これも、真実といえば、真実なんだろうな、

と思う本日でありました。

どんとはれ。

今朝のお写経は!「乃至無老死 亦無老死尽」つまり、老いるのは嫌だ、生きるのが苦しい、死ぬのが怖い、など、苦しみの中に留まるのではなく、もともとこの世界は空、つまり、無常無我、つまり、常に移り変わり酸素があるから外部世界があるから人は存在できるのだから、老いなどで苦しむのが自然の道理なのだから、苦しむ必要はなく、苦しみを超えて、その経験から始めて得られる学び、魅力を身につけよ!と言う事らしい。

本日の写経は

今朝の般若心経の写経は 枡野俊明 監修、岡田崇花 著の

書き込み式 ボールペン「般若心経」練習帖

の16日目。

まあ、いちを、毎朝、写経は続けているのですけれど、

bogに書けなかったので、

飛び飛びの内容になってしまっております。

と言うことで、

今朝は、

「乃至無老死 亦無老死尽」

でした。

とは、

「こだわらない、とらわれない、超えて前進せよ。

老いるのは嫌だ、死ぬのが怖い、と言う、苦しみの中に留まらず、苦しみを超

えて、前進せよ」

みたいな感じ。

もともと、我々が存在している世界は、自分の思う様にならない世界、

つまり、苦の世界なのだから、

しかしながら、常にうつろいゆく無常の世界なのだから、

喜びや感動もうつろいの中で現れてくる、というか、

自分の心の持ちようで、美しい、楽しいと、自分の心で

感じ方を制御できるものなのだから、

老いるのは嫌だとか、自分の思い通りにならなくてイライラするとか、

頭にくるとか、と言う苦しみの中にとどまるのではなく、

その苦しみを超えて、前進、成長せよ、

と説いている模様です。

もともと、私たちのお身体も、社会の中で生活している、この世界は、

空=無常無我

の世界で、ご縁のある世界でしか生活、存在できないのであるから、

老死や怒りやいらだち、などにわざわざ、それを考え続けて、

心を苦しみの世界に自分からとどまらせるのではなく、

その思いに、こだわらず、執着せずに、そこから離れて、

前に進み、前進せよ。

もともと、そういう世界、空なる世界なのだから、

怒りなどにとらわれて、苦しむ必要はない。

つまり、

老死や怒りなどの苦しみが尽きる世界を求めるな、

この世界の中で、自らを由りどころ(自由という)にして、

サイのツノの様に、ひとり前に進め。

とのことらしい。

全てが空、移り変わるものだから、わざわざ、自分を苦しめる、

苦しみの中にとどまる必要など無い!!

である。

「はい、了解しました!お釈迦さま!」

すると!認識の作用を超える、別の認識、判断をする様にしなさい、と言うのを悪用したのが、第三者の利益になる様に認識させる「洗脳」!!と言うことになる訳で、自分の利益のため、が「教育」と言うことか!まあ、今の教育がそうなっているかは別として、、、

と言う結論になりました。

精神神経科の先生も、

結局は、認識の仕方を変える、

あまりにも生真面目に育てられた方の認識の仕方を、

あまりにも偏った、自分の心を苦しめる認識の作用を、

弱めたり、別なものに変えたり、

あまりにも強烈な出来事であれば、

その過去に目を向けるのではなく、

未来の夢、ゴールに目を向けさせて、

強烈な苦しみ、トラウマを感情を発動させないように、

唯一コントロールできる未来に目を向けさせて、

生きていくようにしてくれているのが、

心理学者さん方々なのかな、と思ったり。

最近では、

コーチングによって、

日々のアファメーションによって、

認識の作用を自分で超えるために、

悟りの先の境地に達するために、

行っている様にも、見えたりなんかした。

なんか、面白い。

般若心経の写経をしてたら、

洗脳や心理学、コーチングと、

繋がってきた。

ん?

洗脳方法や心理学、コーチイングを勉強して、

心の作用の仕方を変えることができると、

悟りの境地に達せられるって事なのか??

まあ、山の中腹?まだまだ平地かもしれませんが、、、

今朝の写経は!「無眼耳鼻舌身意」つまり、我々人間が苦しんだり、悩んだり、喜んだり、つまり、心の揺れが生じる理由は、五感、例えば、視覚に入ってきた外部の情報によって、つまり、外部世界からの影響を受け取る感覚器官(五感)によって、例えば美しい花をみると、綺麗だな美しいな、と言う感情(意)、つまり、心が揺れる。なので、「怒り」を感じる情報が五感から入ったも、「怒り」と言う認識をするのではなく、別の感情が生まれる認識(意味付けを変えて)になる様に、認識の作用を超えなさい、この先こそが悟りである!らしい!

今朝の般若心経の写経は

枡野俊明 監修、岡田崇花 著の

書き込み式 ボールペン「般若心経」練習帖

の12日目。

「無眼耳鼻舌身意」

であった。

ふむ。

なんか、すごい。

我々人間の心の揺れ、心の乱れ、怒り、喜び、苦しみ、楽しい、

などの感情、つまり、心の揺れは、

人間の感覚器官、つまり、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の

五感に入ってくる、外部世界の情報によって、

心の揺れ(意根と言うらしい)が、生じる。

つまり、

五感から受けた情報に対して、「美しい」とか、「汚い」とかの、

判断が、必ず、人間はするらしい。

だから、そういった人間の判断という認識の作用を超えていきなさい、

と言っているそうです。

その六根(五感+心(意))を超えていった先に、

悟りの境地がある、

のだそうです。

なんか、すごいね。

心の揺れを超えたところに、心の揺れを制御できる様になった先が、

悟りの世界、

という事ですよね。

すごいな。

つまり、

悟りの定義は、

「五感から入ってくる外部世界からの情報に惑わされず、

心が常に静まった状態を超えた、その先の世界を悟りという」

とまあ、全くの、初心者ですが、

この著者の説明から、判断される悟りの定義は、

こうなるのである。

が、しっかし、どうも、悟りへの道は、永遠に続くらしく、

これ以外の定義も、沢山ありそうなのであるが、

まあ、本日のみからの結論は、こうである。

今朝の写経は「不生不滅、、、、、」つまり、「一般的な価値観、つまり、汚いから嫌い、綺麗だから好きとか、世間の感覚に惑わされす、汚い、綺麗などの感覚にこだわらず、一喜一憂しない。つまり、とにかく、心が乱れる様な事から離れ、穏やかな心の状態になる様に生きなさい」みたいな感じか?

今朝の写経は、

枡野俊明監修、岡田崇花著の

書き込み式 ボールペン「般若心経」練習帖

の10日目。

不生不滅 不垢不浄 不増不減

でした。ここで、「不」をどう解釈するかなんだけど、

 不=こだわらない、とらわれない、超えていく

と解釈するらしい。

すると、例えば、

「何かを言われて、嫌な気持ちになっても、

その気持ちをわざわざ、持ち続け、気にかけ、いつも思い出し、

苦しい気持ちを持ち続けるのではなく、

すぐに手放して、気にしないで、とらわれないで、

心穏やかな状態に、心をコントロールしなさい」

みたいな感じいらしい。

すると、

「子猫が生まれて嬉しい、とか、子猫が亡くなってしまって苦しい、

とか、一般的な感じ方、価値観、を超えて、とらわれないで、

生死に一喜一憂するな。

これは汚くて嫌いだ、とか、これは美しくて素敵だ、

と言う、一般的な感じ方、価値観、を超えて、とらわれないで、

汚い、美しい、と言う感情に一喜一憂するな。

人から批判されたとしても、褒められたとしても、

あなた自身が変わるわけではないのだから、

つまり、あなたが増えたり、減ったりする訳では無いのだから、

一般的な感じ方、価値観、を超えて、とらわれないで、

増えて嬉しい、減って苦しい、と言う感情に一喜一憂するな。」

と言う事らしい。

そして、

全ての出来事は、宇宙は、空=無常無我、なのだから、

どんな事があっても、心が乱れないように、

心が乱れることに、わざわざ、執着、こだわらずに、

その考え、受け入れ方を、超えて、一喜一憂せずに、

生きていきなさい、

と言うことか。

まあ、

目の前の物質は、原子が集まって、

原子同士がバネで引っ張ったり、離れたりして(格子振動と言います)

お互いに相互作用していて、

離れようと思っても、

バネで、つまり、縁で、つまり、ご縁で、

つながっているのだから、

そして、常に、他の原子は、他の人々は、

変化し続けているのだから

固体物理では、零点振動とか零点エネルギー、つまり、常に振動している事を意味)

それらから、相互作用を受けて、

バネで、引っ張られたり、離れようとされたり、

するもの、つまり、無常な世界がこの世界なのだから、

これも何かのご縁で起きている訳だから、

開き直って、全ての出来事は縁によって起きるのだから、

こだわらず、とらわれず、心乱れる事が起きても、

ご縁で起きている事だから、

こだわらず、この心の乱れが起きないように、

心をコントロールして、制御して、

つまり、この気持ちにこだわらなくなる様に、超えて、

成長して、生きていきなさい、

と言う、意味のような気がする。

つまり!!

仏教の、お釈迦さまの一貫したメッセージは、

「何が起きても、心が乱されても、心が平和な気持ちでいられる様に、

修行し、超えて、成長していきなさい」

と言っているように、見えるな〜〜〜。

すいません、個人的な感想ですので、あしからずです。

まる。

今朝の写経は!「是諸法空相」意味は「舎利子よ(人々よ)、森羅万象、生きとし生けるもの、現象、出来事、そして、何千年何万年もの時をかけて育まれた緑豊かな自然、宇宙、これら全てのものが「空」である。つまり、日々刻々と移りゆき(無常)、お互いに影響を与え合いつつ存在(無我)してる」と言う意味なんだって!

今朝の写経は

枡野俊明さん、岡田崇花さんの

書き込み式 ボールペン「般若心経」練習帖

の9日目、

「舎利子 是諸法空相」

なのでした。

昨日、一昨日は、blogに書けなかったのですが、

写経、継続中なのであります。

意味は、

「舎利子よ(人々よ)、森羅万象、生きとし生けるもの、現象、出来事、そして、何千年何万年もの時をかけて育まれた緑豊かな自然、宇宙、これら全てのものが「空」である。つまり、日々刻々と移りゆき(無常)、お互いに影響を与え合いつつ存在(無我)してる」

の様です。

色々、考えてみると、

この宇宙のほぼ確実な真実は、

全て無常無我

つまり、

我々の住んでいる宇宙は、常に変化し続ける(無常)

酸素がなければ、我々は存在できない、つまり、父母など外部世界との

ご縁によって存在できているのであって、

自分一人では存在、生きていく事はできない(無我)

確かに、

宇宙は無常無我である

と言う事だけは、真実である、と感じられる。

が、しかし、

ゲーデルチャイティン不完全性定理により、

本当に真実であり、絶対に正しい

とは、言えないので、

間違っていない事を証明することは出来ないけど、

真実と思いますと、言うスタンスで、

宇宙は無常無我だけは、真実

と、思える。

これだけは、確かと、思えたのでありました。

どんとはれ。